こんにちは、ひらそと申します。私は現在ひとり社長として、自分の会社を、ほそぼそと経営しています。
大して崇高は理念はなく「身近な人の助けになれれば、それでよし」ぐらいの、塩ラーメンぐらいあっさりした看板を掲げています。
でも実務はコッテリ熱量を込めて行うそんな会社で、WEBマーケティング支援/顧問、広告運用代行、コンサルティングなどを行いながら、5期目を迎えた今もなお、ほそぼそ経営中。
ありがたいことに、これまで知人の繋がりだけで、目標売上、利益を毎年達成できております。会社HPは休止し、今はnoteとSNSが主な集客源となっています。
で、今でこそ、こんな感じでゆるっと経営者やってますけど、もともとは年商10億を目指していた時期もありました。当時は数名メンバーも雇っていましたし、家族との時間も多少削りつつ、ガッツリ仕事に従事していたことも。
でもある時気づいたんですよね。
「オレ、なんか無理してんなー」と。

こちらは、無理していた頃の写真です。ヒゲも濃いし、顔色もなんか悪い。
なぜ「無理してる」と思ったかというと、私の人生のテーマが
「ロックされない人生を送る」
というものだからです。
にも関わらずこの時期は、時間も場所も仕事も人間関係も、ロックされまくりでした
「ロックされない人生」というのは、具体的にいうと
- 未来のスケジュールは常に真っ白にしていたい
- 今日、思いつきでアフリカに飛べるぐらいフットワークを軽くしときたい
- 仮に今日死んでも、できるだけ他の人には迷惑をかけたくない
- おもしろいビジネスの話が来た瞬間に「いいね、やろう」と即答したい。
- 家族との時間を1ミリも犠牲にしたくない。
- スーツ着たくない。
こんな感じ。
法人2期目あたりはゴリゴリ稼ぐことだけを考えていました。でも年商1億を目指していく途中で、気づいたことがあります。
それは、自分の会社の事業を大きくすればするほど、いろんなものが自分に責務として乗っかってくる。ということ。
また、当たり前ですが、売上を上げようと忙しく働けば、家族との時間も犠牲にしなきゃいけない、ということにも気づきました。
ちなみに先ほどの写真は、時価総額30億円の会社さんと、横浜で1泊2日の合宿を行い、関係者勢揃いで缶詰で、中長期マーケ施策を考えよう、という企画の打ち上げでゲーセンに行った時の写真です。もう時間も場所もロックされまくりですw(それはそれで楽しかったですけど)
で、世の中には、売上10億、100億、1,000億円の企業を経営するとんでもない化け物のような人がいます。その人たちからしたら「数千万円程度で何を言うとんねん」と思われるかもしれません。
でも、私にとっては、年商1億の手前まで行った時、「ここが攻めるか守るかの1つの区切り、分岐点だ」と感じました。
また、ある事情で、私は今、ワンオペで2人の娘を育てています。シンプルに子育てが忙しいこともありますが、それよりも私が娘たちのことが好きすぎるので、1秒たりとも離れたくありません。
だけどだけど、売上も会社規模も大きくなれば、それだけ関わる人が多くなり、仕事が忙しくなります。会食や出張の機会もどうしても増える。だけど僕は常にフットワークを軽くしておきたい。
だから今の「細々」の経営スタイルに変えたんですよね。
結果的に今、この選択をしたことで、人生でいちばん幸せな時間を過ごすことができています。

こちらは、2025/5 先日行った娘とのヒゲダンライブ。ヒゲも薄いし顔色も良い。
また、おかげさまでオフラインの繋がりだけでなく、SNSからもお仕事の機会をいただくことも増えたので、この機会に色々と自己紹介しておこうと思った次第です。
また、『起業家』『経営者』と言っても、何もみんながみんな売上10億とか狙わなくてもいいんだ。僕みたいに年商一千~数千万円規模でも、楽しく、自由にロックされずに生きられるんだ、という生き方を証明したいと思っています。
そんな生き方にご興味のある方は、ぜひ最後までお付き合いください。
「いい子でいなきゃ」ばかり考えていた幼少期

私は大阪のとある街で生まれました。都会なのか地方なのか絶妙な空気感で、とても良い雰囲気の地元ですw
自転車で頑張ればミナミぐらいの都会には出られるけど、ちょっと歩けばヤンキーもたくさんいる、マツコさんの番組で取り上げられそうな雰囲気のちょっとディープな町。
私は2人兄弟の弟だったのですが、兄が割と「はちゃめちゃな人」でした。
兄の素行が悪くて、しょっちゅう学校に呼ばれる親を見て、「あぁ僕はもっといい子でいなきゃ」「大人に迷惑をかけちゃいけない」って、末っ子ながらに思ったのを覚えています。
そのあたりの記憶が今の自分の人格形成に大きく影響していそうな気がしてるんですよね。
「いい子でいなくちゃいけない」「ニコニコしてなきゃいけない」
それが30歳ぐらいまで続き、その反動で30歳を過ぎてから遅めの反抗期が来ますw「大人の言いなりになってたまるか」と仮面を脱ぎ捨てたのが30歳です。
学生時代は剣道に打ち込む

転機といえば、中学1年生で剣道部に入ったことでしょうか。
入った理由は「なんとなく」。深く覚えていません。ただ「野球部やサッカー部は人気で、中学から始めてもレギュラー取れなさそう」というような安直な理由はあったと思います。
入ってみて、どうだったか・・・?
もう、地獄でした。
当時は今ほど熱中症に対する知識も体勢も整ってない時代。また、パワハラや体罰にもまだまだゆるい時代でした。
顧問の先生は、中京大学という超強豪大学出身、当時で剣道七段のバリバリの鬼の先生でした。直接殴られるようなことはなくても、剣道なので体当たりや打突で毎日ボコボコにされます。
言葉のハラスメントもエグかったです。「やめてしまえ」「根性なし」「帰れ」「しばくぞ」「ええ加減にせぇよ」などの怒号が毎日飛んできます。
僕と同じタイミングで入部した同級生は17人いましたが、1年生の夏休みには5人になっていました。
夏の稽古では、意識を失って倒れたこともあります。そのあと目が覚めて先生に言われた言葉は「大丈夫か?」ではなく、「お前、そんなんじゃ試合に出せへんわ、根性なしが」でしたw
でもそのキツイ3年間の剣道部で学んだことは、本当に数知れずあります。
もちろん剣道の実力もそうですが、それ以上にメンタル面が強くなった気がしますね。
・どんなにキツイことでも、仲間と一緒なら乗り越えられる
・あのキツさを経験したら、もう一生これ以上に怖いものなんてない
・正しい方向で努力すれば、その努力は必ず報われる。
その後、中学を卒業し、高校はそこそこの進学校へ。そして大した思い出もなく、大学へw
大学時代もまた、剣道に打ち込みました。
最後の年は主将までやらせてもらって、剣道そのものもそうですが、チームをマネジメントすることの楽しさややりがいは、そこで学んだ部分も多いです。
東証一部上場企業に就職できたが、ポンコツすぎて嘆いた新卒
敷かれたレールに乗ったまま、進学校→国公立大学→からの大手企業に就職しました。氷河期だったので就活はそこそこ苦労しましたが、あんまり覚えてないのでカットします。
苦労して入社したそこは東証一部上場の大手商社。社員数は2,500人ほどで当時の売り上げは3,000億円、憧れの大手企業でした。
元々、起業に興味があったので、「20代のうちにたくさんの経験を積みたい」と思って入ったのが、商社を目指したキッカケです。
しかし、社会人生活は順風満帆とはいかず、入社してすぐの頃は、ずっとポンコツ扱いされて、そこでもパワハラを受け続け、めちゃめちゃ精神的にキツかったのを覚えています。
剣道部の時と同じように、毎日のように「帰れ」だの「アホ」だの言われ続けて涙を流す日々。
古い体質の会社だったので、ビンタ、蹴られる、殴られる、は普通にありました。(今考えたらやばいw)
さらに私は「ポンコツ君」で会社で評判になってしまい、初めて会う先輩にも「お、ポンコツで有名なひらそ君だよね」とバカにされ、めちゃめちゃ悔しい思いをした記憶があります。
「結果を出すしかない」
と、私は腹を括りました。
あまりにも悔しすぎて、そこからは、1日のほぼ全てを、仕事と勉強に費やしました。
平日は朝5時に起きて、通勤電車で勉強し、6時に出社。出社後は会社で取っている全ての新聞を読み、政治経済の勉強。そこから仕事を開始。
夜も同様です。同期のみんながコンパやキャバクラに行く中、私は仕事をひたすらこなし、仕事が終わったらまっすぐ帰って、仕事術、文章力、会話力などの仕事に活かせるスキルの勉強、あとは貿易の資格や英語の勉強を続けます。
土日も朝6時のオープンから社員寮の近くのバーガーキングで勉強していました。
そしたらオール明けでクラブから帰ってきた同期に会って「お前、マジメなwww」と言われたのを覚えています。
なぜマジメな人間を笑うのか理解できませんでした。しかし、私は私の道を信じてひたすらに勉強と行動を続けます。

するとだんだん、仕事で成果を出せるようになりました。
会社ってのはおもしろいもので、評判はインフレかデフレのようにすぐに広がります。(みんな暇なので、すぐに噂が広まるんだね)
1年目で「ポンコツひらそ」と呼ばれていた僕は、2年目には「優秀なヤツ」と噂されるようになり、どこへ行っても「お、優秀で噂のヤツやな。うちの部署きてくれへんか?」とまで言われるようになりました。
こうやって、努力は成果につながり、その成果が噂につながって、知らない人からの評判も信頼もなぜかプラスされる。
これは会社だけでなく、社会の縮図でもあるんだろうな、って思ったのを覚えています。
20代は文字通り激動の10年間を過ごす

そして2年目に突入します。ちなみに給料はよかったです。
初年度こそ年収400万円ぐらいの一般的な水準でしたが、24歳、3年目で海外駐在した時に年収は1,000万円以上に跳ね上がりました。
当時はまだ海外駐在員に対しての待遇がよかった時代だったんですよね。
ちなみに私の少し前の世代では、「商社では、海外駐在を3年したら家が建つ」というのが商社パーソンの常識でした。
私が駐在した2014年ごろはさすがにそこまでバブリーではなかったですが、それでも24歳で年収1,000万円台に乗れたことは、自分でもちょっと鼻が高かった記憶があります。
お金は稼げました。
しかし、、、、、、
まじで時間がない!
これが20代の最大の悩みでした。
商社のお仕事をご存知の方ならわかると思いますが、転勤や部署異動はめっちゃ多いです。・・・特に優秀な人ほどね(メガネくいっ)
ちなみに私の場合はこんな感じ。
2011年4月:大阪本社で仕事スタート
2012年9-12月:北京事務所へ駐在
2012年12月:大阪本社へ帰任
2013年4月:東京本社へ異動(居住は千葉)
2014年1月:上海事務所へ駐在
2015年1月:東京本社へ帰任(居住は東京)
2016年6月:大阪本社へ異動
22歳〜27歳までの5年で6回引っ越しています。
もちろん当時20代でスタミナも意欲もあったし、まだ独り身の時間が長かかったので、喜んで引っ越しや駐在を経験しました。
しかし、そんな時に私の人生観を大きく変える転機が訪れます。
それが、子育てと介護。

独身の時は、忙しくでも、楽しく充実していました。
だけど24歳で結婚し、25歳で第一子、26歳で第二子を授かり、また同タイミングで義母の介護が始まります。
この時に初めて
「1日24時間を自分のためだけに使えることが、いかに貴重なことだったか」
を思い知らされます。
そこからしばらくは、体力的にかなりキツい日々を過ごしていましたね。
このまま今の会社に居続けたら、自分の体が壊れてしまう、と思い、副業を始めました。
当時、はやっていたブログアフィリエイト。でも知識もセンスもなく、全く稼げず。時間だけが過ぎていきます。確か1年間、毎日2時間ずつ記事を書いたのに、1万円も稼げなかったことは覚えています。
なので、27歳ごろが一番きつかったですね。
本業→副業→育児→介護
→本業→副業→育児→介護
→本業→副業→育児→介護
ひたすら、これの繰り返し。1日の睡眠時間は4時間ほど。気合いで生きている感じでした。
もちろんすくすく育ってくれる子どもは可愛かったのでとても幸せでした。でも体力的にももう限界が来ていました。
思い切って会社を辞めて無職→その後エンジニアになった27歳
27歳のとき、こんなふうに考えました。
「このままこの会社にいても、転勤や異動の事例は断れず、強制参加の飲み会も多い。給料は高くても、時間が全くない。このロックされまくりの人生から離れなければならない」
そして思い切って、退職。3ヶ月間、無職(主夫)になりました。
次の仕事を決めずに会社を去ることには、多少の勇気は必要でした。
でも、まぁ、「嫁も働いてるし、退職金もあるし、なんとでもなるっしょ」と、ある意味楽天的に考えていたわけです。
そして、次の仕事を選ぶにあたって、この2つの軸を大事にしようと考えました。
・時間と場所に制限されず
・かつ時給もある程度高い仕事
その観点で見た時に、「フリーランスエンジニア」という選択肢が浮かびました。


そして、あとは持ち前のやる気とガッツで、行動→行動→行動。
3ヶ月でプログラミングの基礎を独学で身につけ、まずは派遣社員としてエンジニアとしてのキャリアをスタート。その後、6ヶ月後には独立してフリーランスエンジニアとなりました。
そして、ある程度家族を食べさせられるぐらいまで収入が上がったタイミングで、また転機が訪れます。
マーケティングのキャリアをスタートした28歳

エンジニアとして活動しながらも、やや悶々とした日々を過ごしていました。
その理由は、シンプルに収入がもっと欲しかったこと。
リアルな話をすると、私のような「社会人になってから、勉強してエンジニアになった人」が、大阪でフリーランスエンジニアになっても、せいぜい年収は600-700万円ぐらいが関の山です。
年収1,000万円以上稼ぐエンジニアってのは大体、
・学生時代からゴリゴリプログラム書いてたスーパーエンジニア
・ある程度キャリアを積んだ40代以上のエンジニア
・ブロックチェーンなどの最新技術に関わるエンジニア
この辺の人たちです。
フリーランスのエンジニアになり、ある程度時間の自由は手に入ったけど、収入面でもうちょいなんとかしなきゃな、、、そう思っていた時、ある人物が声をかけてくれました。
それが、生涯で最も大きな出会い、マネクルの田窪社長との出会いでした。
田窪さんは当時、自社でエルステップというLINEのCRMツールを開発し、さらに事業を拡大させようとリクルートに力を入れていたそうです。
特に
・若くて
・熱量とガッツがあって
・もっと稼ぎたくて
・大手企業の社会人経験があって
・プログラミングがわかるやつ
を探していたそうです。まさに私がドンピシャの人間でした。
出会いは私が田窪さんのマーケティングセミナーに参加したこと。その懇親会で田窪さんは私を口説いてくれました(w)
田窪さん「君、億を稼ぎたくないか?」
ワイ「もちろんす」
田窪さん「じゃ、マーケティングやりな」
ワイ「やります」
まじでこんな感じで入社が決まった感じでしたw
まぁ実際は、この会話の後に、会社を訪問して、先輩社員の話なども聞いて、1ヶ月後に決断し、2ヶ月後に退職。そこからマネクルの正社員としてマーケティングの修行を始めることになりました。
田窪さんはじめ、当時のマネクルでお世話になった方々には、本当に感謝しても仕切れないぐらいです。
WEBマーケティング、WEB広告のスキルだけではなく、会社経営のノウハウやメンバーマネジメントスキルに至るまで、たった2年半で、本当に本当にたくさんのことを経験させていただきました。
今でも田窪さんとは時々お食事に行くし、田窪さんがもし困っていたら、地球の裏側まで駆けつけるつもりです。それぐらい、受け取ったギフトは大きく、感謝をお返ししたいと思っています。
独立し、法人を立ち上げたのが31歳
マネクルでは、「2〜3年で卒業すること」を見越して、たくさんのことを経験させてくれました。
田窪さんは、「育てた社員を自社で活躍させるよりも、さっさと世の中に解き放って起業させて、事業ベースで自社と協業する」という考えの持ち主だったんですよね。
なので、退職するときも引き留めなどはほとんどなく、「頑張れよ!」と言って送り出してくれました。(本当に寛大だ・・・)
その後はまずフリーランスとして、広告運用代行やコンサルでご飯を食べていました。
独立した年、ありがたいことに年収も大幅にアップし、個人事業主としてやっていくには、所得税が大きすぎると判断したため、2021年7月に法人を立ち上げました。これが今の私の会社です。
そこからも引き続き、経営やマーケティングに関わるお仕事をいただいて生活していました。
主な業務としては、
・WEBマーケティング支援(主にコンサル)
・とある企業のCMO
・広告運用代行/コンサル
・顧問サービス(なんでも気軽に相談してね)
・経営改善支援(マネジメント、組織作り)
などなど。
設立〜3期目ぐらいまで、けっこうがっつり稼ぐことを主体にしていました。年商も数千万円規模までは成長させることができました。
基本的に自宅で仕事をするスタイルなので、子どもたちの送り迎えもできたし、毎日晩ご飯を一緒に食べる、という夢も達成できたのが嬉しかったですね。
セミリタイアしてみた34歳

で、34歳。いきなりセミリタイアしてみました。
理由はいくつかあります。
・十分にFIREできるぐらいの資産が貯まった
・当時長くお付き合いのあった大口のお客さんとの取引が終わって区切りがついた
・本気で自分と向き合ってみようと思った
・今しかない子どもとの時間をMAXで大事にしたいと思った。
特に、22歳〜34歳まで、激動で仕事と子育てしかしてこなかったので、「このままだと貴重な体力のある若者の時間が、セピア色の思い出しか無くなるな」と感じたことを危惧したからですね。
で、FIREしてみて、やりたいことはたくさんありました。
・健康診断(リアルw)
・映画を見まくる
・英語の学び直し
・子どもを連れて遊びにいきまくる
・バイクで行き先を決めずに旅をする
・剣道しまくる
などなど。
あと、ずっと書き溜めていたバケットリスト(やりたいことリストのようなもの)も消化を始めました。
そして実際にFIREしてから3ヶ月でやったこととしては、
・映画を毎日1本見る
・海外ドラマを一気見
・週6で剣道
・毎日サウナ行く
・月2回、平日に子どもを連れてユニバへ
・1日1時間ぐらいストレッチ
・毎日1時間英語の勉強
・ゴルフのレッスンに週4で通う
・ゴルフのコースに毎週行く
・気が済むまでサウナに行く
などなど。
これはこれで、最初は充実していました。自分の時間も取れるし、やりたいこと全部できるし、子どもたちとも大事な時間をたくさん過ごせている。
「最高の人生やないか」と感じたわけです。
でもね、3ヶ月ぐらいしたときに気づいたんです。
「この生活、飽きるな」
と。
いろんな人が言っているのは知っていました。
「FIREは飽きるよ、と」
耳タコでいろんな先輩から聞いていました。ネットでも何度も見かけていました。はい、言葉では知っていたんですが、実際やってみると、3ヶ月で飽きました。厳密には、2日目ぐらいにはもう飽きてましたかねw
そう、FIREは飽きるんです。なぜか?自分なりに感じたのは
・適度なプレッシャーがなく、日々の生活に緊張感が出ない
・同じタイミングで遊べる友達がいない
何より、家族以外の人との関わりが極端に減る、というのが大きかったかもしれませんね。
自分では、ひとり遊びが好きな陰キャだと思ってたんですけどね、それでも人との繋がり、人との関わりが生きるのにはすごく大事なんだな、って思い知らされました。
35歳〜昔の繋がりのお世話になることに
そんなこんなで「そろそろ仕事しよっかねぇ」なんて思っていた頃、8年ほどお付き合いのある社長さんとお食事に行きました。
それは特に大きな目的があるわけではなく、なんとなく「久しぶりにご飯行きましょー」みたいなノリ。
それが、アドベートの佐藤さんです。
佐藤さんは、上述したマネクルの同門の先輩に当たる方で、マネクル時代にいろんなことを教わった先輩でもありました。
そして、お食事中に佐藤さんにフワッとこんな会話をしました。
ワイ:「今、人、足りてます?」
佐藤氏「全っ然、足りてないです」
ワイ「なんか手伝いましょか?」
佐藤氏「ぜひお願いしたいです」
いつも思います。
自分の力を必要としてくれている人がいるのって、本当に嬉しいことです。
例え人が足りていなくても、誰でも彼でもお願いしたいわけではないですからね。普通は。
ということで、ひょんなご縁からアドベートの人事部長として、広告運用やコンサルティング、あるいは社内の組織づくりのお手伝いをすることになりました。
同じタイミングで、自分の法人の顧問サービス(なんでも相談してね的な)も復活させ、私のFIREは6ヶ月で終了。無事、仕事に戻ることとなりました。
悩める若者や、働くパパママに幸せになってほしい
以上で私の自己紹介は終わりとなります。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
改めて私の価値観をお伝えすると、
いま目の前で困っている人、そして私の力を必要としている人に、私ができることを提供したい
こんな気持ちでいつも仕事をしています。
これまでお伝えしたとおり、私は、職種で言うと営業→人事→エンジニア→マーケティングがメインになりますが、おかげさまで本当にたくさんのことを経験させてもらいました。
働き方も、大企業勤務からスタートして、無職、主夫、派遣社員、フリーランス、起業、会社経営、、、など。
いろんなことを経験したからこそ、私にしか語れない内容があると思います。
また、ワンオペで子育てをしているのも私の強みでしょうか。
仕事をしながら子育てをするのがどれだけ大変か?は、人並みに経験しているので、わかっているつもりです。
こうやってたくさんの経験をしたからこそ、
キャリアに悩む10代〜20代の方
子育てや介護との両立で悩む20~30代の方
こういった方の力になりたいと思っています。
そしてそう言う方々に、まずは、手っ取り早く時給を上げて、経済的/時間的自由を手に入れるためには「広告運用を身につけましょう」と言う軸で発信を行なっています。
なぜなら、私自身が色々ともがく中で、マーケティングや広告のスキルを身につけたことで、一気に時給が跳ね上がり、さらに時間の自由ができたから。
働くパパママにこそ広告のスキルを身につけてほしい、本気でそう思っています。
広告のお仕事は、確かに簡単ではありません。プレッシャーもあります。
でも、その分結果が目に見えて発生するし、案件がうまくいった場合、クライアントと一緒に喜ぶことができるのは、本当にやりがいのある仕事です。
ここまでお読みいただいたのも何かの縁です。
もし
・未経験だけど、広告運用に興味がある。
・私ひらそと一緒にお仕事をしてみたい
・広告やマーケティングのことでひらそに相談したい
・なんとなくひらそと話してみたい
そう思っていただけたら、ぜひDMをお待ちしています。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
現場からは以上です。